ビフレストの二つ手前の駅で降り、館長が予約したホテルに二人は向った。
ラグは地方行きを棒に振り、落ち込みをみせている。
ノワールとの時間を選んだと言っても、接し方が分からずにいた。ボストンバックはノワールに握られ、幼い少年は後を付き従うしかない。
「…駅から、徒歩十分くらいって言ってたんだけど…」
ノワールはマップで宿泊先を確認している。
(ぼくはなにをしてるんだろ…)
周囲を伺う黒猫の後ろで、ラグはがっくり項垂れていた。
(これで良かったのかな…。ゴーシュ兄さんとホテルで二人きり…、話すこともないっていうか…。尋ねても答えてくれないだろうし…。こんなぼくは、シルベットに顔向けできないよ…)
「ラグ…?」
「……え…?」
ノワールは列車で出会った時より幾分やわらかい面立ちになり、なおさらラグを当惑させていた。何よりも望んでいた優しいゴーシュが目の前にいる。
だが、心は晴れず、もどかしい自分に曇りを帯びる。
「疲れた…?」
「う、ううん」
「あいつが予約したのって、たぶんあそこ」
指さした先には、木々に囲まれ如何にも老舗らしい風格のホテルが見えた。
「温泉に入るの、楽しみだな」
「…お、温泉…?」
含みを秘めたノワールの口ぶりに、ラグはギョッとして肩をすくめる。
「ラグと、二人きりで、露天風呂…」
「一緒に、…は、入る必要ないでしょ!」
「何言ってるんだ。せっかく泊まるんだし、もったいない。ラグの身体、隅から隅まで洗ってあげるよ?」
「な…!」
「顔が赤いよ、ラグ・シーイング…?」
「…………」
「なにを想像したのかなぁ、きみ…」
「ゴーシュ…!」
「いろいろ洗っちゃお」
「…もう!」
からかわれラグは拗ねて見せたが、ノワールは上機嫌だ。
「もう少し、大人だったら、楽しみが増えたのに」
「……?」
(もう少し大人だったら…?)
ぼんやりと意味も解らず復唱し、ラグは首をかしげる。
可愛らしく上目使いで見上げるラグを眺め、ノワールは口笛を吹きホテルへ向かった。
辿り着いたホテルは、落ち着いた佇まいの洋館だった。
歴史建造物に指定されているらしく、文化財標識がラグの目に留まった。チェックインまでは時間があり、ノワールは荷物をフロントに預け観光しようと言ってきた。
「どこ行こうか、行きたいところある?」
黒猫の性格は律義な上に好奇心旺盛だ。突如訪れた旅先にも関わらず、ふらふら街へ繰り出し始める。一方ラグは、用意周到タイプ。事前に調査し、計画通りにスムーズに行動するのが好みだ。
(どこって言われても、予定外だしこの辺りは調べたこともないから、全然わからないし…)
ノワールの無鉄砲な行動力に、ラグは苦々しい顔をした。
ホテルで貰った近隣のガイドマップ片手に、ノワールは嬉しそうに「温泉」を連呼しているが、ラグは全身を晒す危機に直面した気分だ。
「ぼくは、二人で露天風呂は絶対に嫌だよ…!」
「どうしたんだ、ラグ。機嫌悪いな」
「別に…」
「素直じゃないなぁ」
「温泉って気分じゃないだけ」
ツンとするお子様な態度に、ノワールは溜息を零す。
「――来いよ」
ノワールは耐え切れずラグの手を引いた。
「あ…っ!」
大人の手だった。
昔の手繋ぎの原型はなく、形のいいすらりとした長い指と大きな掌。力強く手首を握られ、ラグは改めて体格差を思い知った。背後からノワールを見上げ、しなやかな背中に釘づけになる。
(ゴーシュ兄さん…、こんなに背が高いんだ…)
大人のノワールを意識しただけで、心臓が激しく鼓動を打ち始める。睫毛を瞬かせ、前を歩くノワールの背中を切ない面持ちで追った。
(どうしよう。すごく、ドキドキしてる…。これじゃゴーシュに聴こえちゃう…)
心と身体は直結を示し、わずかな動揺ですら頬が熱くなってゆく。
「ラグ、熱?」
「え?う、ううん…」
誤魔化しに、ラグは何度も首を横に振る。
「熱があるなら、やめてもかまわないけど?」
「へ、平気。なんでもないから」
たどたどしい口調に、黒猫は眼を細める。
「ひょっとして、…これのせい?」
「ち、違うよ…!」
ノワールはラグの手首を掲げ、いたずらに笑った。戸惑う反応に、口元はさらに緩む。
「ラグの『違う』は裏を返すと、図星だったり…」
「ゴーシュ兄さん!」
ラグの顔は真っ赤だ。
「――ゴーシュ兄さん…、か。…やっぱり癖は抜けないな…」
「あ…!」
ほどけたのはラグの口も同じだ。恋しさを指摘され、とたんに口をきつく結ぶ。
「…………」
「いいじゃないか、ラグが気にしないなら、……それで」
ノワールはやわらかく笑い、ラグと手をつないだ。
テロリストのノワールは姿を消した、と錯覚してしまう優しさに触れ、ラグの胸は切なくなる。
(ゴーシュ兄さんって、今日だけは呼んでもいいのかな。でも…、そんな都合のいい自分は許せない…)
悩み戸惑うラグの傍らで、黒猫は繋いだ手を引き上げる。
「……?」
手を引かれ見上げた先に、手の甲に唇を押し当てる直前のノワールが目に入った。
「わーっ!!」
あわててラグは手を引っ込める。公衆の面前で手とはいえ、キスをする勇気は持ち合わせていない。
「なに…?」
ノワールは不満気だ。
「な、なにって、こっちが訊きたいよ!」
「キスしたくなっただけ、だけど?」
「こ、こんなとこで、何を言い出すの!」
「列車で何回したんだった?」
「そ、それは…」
「ぼくは場所を選ばないタイプだって、言ってなかったかな?」
「…ううっ…」
白々しい態度を取られ、ラグは返す言葉もない。
「本気にするなよ。ここでのキスはジョーダンだって…」
ふわりとノワールは微笑んでみせたが、ラグは気まぐれな黒猫に翻弄され俯いた。
「……どこまでが冗談か、ぼくには、…わからないよ……」
「ラグ…?」
「……いつも突然ぼくの前に現われて、勝手にいなくなって。どうしたら、信じられるって言うの。ぼくをからかって楽しんで。ゴーシュはそれでいいのかもしれないけど、ぼくは、ぼくは……」
ラグは繋がれた手を振り払ったが、ノワールは戸惑う義弟を力任せに引き寄せる。
「痛い…っ…、離して…」
「離さないよ。――痛いのはぼくも、同じだから…」
「…え…?」
「……解らない?ラグ…」
囁きに顔を上げると、慈愛を秘めた瞳があった。
幼い日の記憶に残る、ラグを護り、やさしかった義兄の瞳。
(――ゴーシュ兄さん…?)
聡明な瞳に見つめられると、穏やかな時間にタイムスリップしたような、不思議な感覚に包まれた。
「あまり、細かいことは気にするな」
「…細かいこと…?」
「ほら、手…」
「…………」
「迷子になったら困るだろ…?」
「……うん…」
当たり前に優しく手を差し出され、ラグは戸惑いながらも倣い、そっと手を繋ぎ返した。