忙しなく乗り継ぐ人々の中に、居ないと解っていながらもラグは保護者の姿を探していた。
(ゴーシュとこれからどうしたらいいんだろう…。あんなことされ続けたら、頭がおかしくなっちゃうよ)
ラグは戸惑いながらやわらかな感触の残った唇を撫で、きつく噤んだ。
停車中、ノワールは背を伸ばし、ラグに気を遣うこともなく構内を伺っているが、
「何分?」
突然の申し出だった。
「…え?」
「停車時間」
「二、三分…?」
「わかった…」
反射的なラグの答えにいきなりノワールは立ち上がり、車内を抜け出してしまった。
(――どうしたんだろ?急に降りたりして)
ラグは両サイドのドアを忙しなく見回す。ノワールの動向が気になって、落ち着かない。
(まさか、お弁当買いに行ったんじゃないよね…)
黒猫の事となると、放っておけない自分が居る。
(それとも、帰ったのかな…?)
ノワールがこのまま帰らなければ、一人での地方行きを余儀なくされそうで、それはそれでこころ細い。
(いいんだ。たとえ帰って来なくても、一人の方がハラハラしなくて済むし。無意味な旅行なんてやめてしまっても…)
発車を告げるベルが鳴り、『駆け込み危険』の車掌の声が聞こえた。
(……え?帰ってこないの?)
ラグは姿を見せない黒猫を捜し構内を覗いたが、無情にドアは閉まり、列車は動き出す。たちまち景色は流景へと変わって行く。
二人分陣取ったグリーンシートに、ラグは力が抜けストンと座った。
項垂れ溜息をつき、意味もなく携帯を開く。
(――ゴーシュ……)
数分の胸騒ぎが、的中し黒猫は戻らない。
(やっぱり、ぼくが『ゴーシュ兄さん』って言ってしまったから、帰ったのかもしれない。あんなのは、『今のぼく』らしくないもの…。キスされただけで、昔に戻れるわけ、ないのに……)
「どうしたんだ?落ち込むような事でも?」
「――――……っ!?」
頭の上に冷たい物体が乗せられ顔を上げると、傍らに紙袋を抱えたノワールの姿があった。
「食べる?ランチ?」
「――あ……」
「あ……、じゃない。さっさと取らないと、これが落ちるだろ」
紙袋に入ったランチセットを、ラグは歩が悪そうに受け取った。ノワールは待ち人に気を利かせ、ダージリンティーのボトルも差し出す。
「車内弁当は不味いから食べたくないし。それにこれならラグも食べられる」
「…え?」
「サンドイッチとフルーツのセット、ゼリーはお子様向けらしいよ」
「……お、お子様…」
ラグは舞い戻った黒猫に戸惑いを隠せず、ノワールを見つめた。
「ぼくの顔になにかついてる?」
「…うっ、べ、別に…」
悪戯に微笑まれ、頬がさっと赤らんでしまう。
「可愛いなぁ、ラグ。嬉しいくせに…」
「…………」
指摘され、さらに顔が赤くなった。
「ぼくの機嫌損ねて帰ったって思っていた?」
「誰が…!」
ノワールは喉で笑いながらランチを取り出し、ふたを開けソース入れを確認した。
「ラグ、こういうの集めてなかった?」
楕円の陶器にキャラクターがプリントされたものをラグに見せつける。
「ぼくをいくつだと思ってるの」
途端、ラグはムッとする。
「さっき、ゴーシュ兄たんって言ってたし、三つ?」
「…………」
「お兄たん、何食べてるのーって、ぼくにくっついて離れなかったな」
「そんな、昔の…」
ノワールは冗談を言いながら、備え付けのイチゴをラグの口に運んだ。
「ほら、あーんして…」
「……」
「ひと口じゃ、入らないかな…」
ノワールの誘いに反射的にラグの口が開く。
「口小さいな、ラグ…」
「…んっ…」
「もう少し開けないと入らないよ」
赤い舌を覗かせ、ラグは口を開いた。小ぶりのストロベリーにも関わらず、ひと口では入らず、ラグは困惑しノワールを見返す。
「そのまま噛んで。半分はぼくが食べるから」
「ん、んんっ…」
イチゴを噛み千切り、爽やかで甘酸っぱい香りが立ち昇る。ラグの食べかけは、すぐさまノワールの口に放り込まれた。
「…ふふ…、間接キス」
「な…!」
「ジョーダンだよ。早く食べよう?」
横から手が伸び、当たり前にラグにフォークを渡す。幼少時代の癖が、未だ抜けきらないのは彼も同じだ。
備えつけのウエットティッシュにプラスして、二、三袋をラグに差し出した。
「こぼさないで、食べられる?――ソースが垂れるだろうから、これで拭いて」
「…とう…」
「ん?」
「…………ありがとう…」
ラグはか細く礼を言った。受け取りノワールは苦笑いをする。
「お子様ランチのが、良かったかな」
(まったくこの人は、いつまでぼくを、子供扱いするんだろう…)
隣に並んで食事をするノワールは、義理堅さもそのままに面倒見のいい兄のようだ。
食事をしていても隣が気になり、チラチラと様子を伺ってしまう。
(どうして、さっきはあんなキスしたんだろう…。やっぱりゴーシュの冗談?分かってるのかな、…ぼくのファーストキスはゴーシュ兄さんなのに…)
伺う視線に気付き、ノワールはサンドイッチを手に取った。
「ぼくに、食べさせてほしいの?」
「もういいよ!」
ラグは手を早めた。
「ゴーシュ兄たん、あーんって、放り込まれるの待ってて、口開けて可愛かったのに」
「あのころと一緒にしないで」
「なんだ、怒りっぽいなぁ…。だったらぼくに食べさせてよ、これ…」
ノワールは紙袋をあさり、チョコレートの詰め合わせを取り出した。
(ゴーシュ兄さん!大箱買い!?)
機嫌良さ気にパッケージをするすると開き、食べる前から満足そうに笑みを浮かべている。
ゴーシュのチョコレート好きはラグも知っていたが、有に三十個は入っているチョコトリュフを手に微笑む黒猫には、さすがに目を丸くした。
「有名なブランドの初売りらしいからさ、どうかなって」
「…………」
「半分食べてもいいよ」
「そんなにたくさん食べるものじゃないよ、チョコレートって…」
「そう?ぼくは全然食べれるけど」
箱を差し出され、ラグは怯んだ。
「ぼ、ぼくはいらない。まだ、サンドイッチが…」
「これがいいな…、なんだろ。グランマルニエ?リキュール入りだって」
ブランドのリーフレットをチラ見し、ノワールは隣に渡した。ラグは一瞥しただけで、箱に突き返す。
「短時間で、よくこんなものが買えたね」
(――チョコにサンドイッチ、ドリンクまで…)
「目がないものは先買いだろ?」
「…………」
(……お弁当の前に、これを買ったのか…)
ラグは呆れた顔だ。
「ねぇ、食べさせてくれるよね、ラグ・シーイング…」
「どうしてぼくが…!」
横を向くと瞼を閉じて薄く唇を開く端正な顔があり、ラグはドキッとした。
「チョコ食べたかったし…」
「で、でもぼくには関係ない」
ラグは緊張し、ノワールに背を向け素知らぬふりをする。
「なぁ、ラグ…」
「静かにして」
「あまり、反抗的な口は塞いでしまおうか」
「……?」
耳元で囁かれ、振り返ると間近にノワールの顔があった。
「ちょっ…!……んっ…」
あっけなく小さな口にチョコレートを含められ、すぐさまノワールにやわらかく唇を塞がれる。
(うそ…!?)
「…んっ!…んん…」
咥内を探るように舌を入れられ、互いの唾液を絡めながらチョコレートがゆっくりと溶け出す。
「…ぅ…っんー…っ…」
甘く官能的な柑橘リキュールの香りが、一気に脳天に突き抜けてゆく。
十二歳のラグには刺激が強い香りだった。大人のチョコレートを味わいながら、大人のキスをされ、意思に反して瞳が潤み出す。
チョコフレークがざらつき、齧る間もなく、ノワールの口に運ばれる。蕩けるやわらかな舌と、フルーティーなリキュールに、たちまち酔わされる。
「……はぁ…っ……」
「思ったより、…甘いな……」
まろやかなトリュフは口溶けが速く、惜しむ間もなく消えていった。
「……や……」
「…ラグも…甘い……」
呟いてラグの舌を絡め取る。
「……ぅ…」
「ほら…、もっと口を開いて…」
「……シュ……」
「……なに…?」
「…や…めっ……」
「…聞こえない…」
不意に触れた指先は、チョコレートの香りがした。
ノワールは顎を掴み、親指を引っ掛け、小さな唇をさらに開かせる。
「…ラグ」
「…ぁ、…っんん…」
ノワールは唇を離そうとしなかった。喘ぎ声に堰を切り、幼く可憐な唇に噛みついた。
「…はぁ…っ、ぁ…んっ…」
ラグは絡められる舌先から逃れを請い、ノワールの背に弱々しく腕を回す。
苦しげに眉をゆがめ息継ぎを求めたが、黒猫は覆いかぶさり、執拗に責め立てた。
戸惑い逃げる舌を追われ、何度も甘く擦り吸い上げられる。唾液の入り混じる淫音が車内に響き、意識は羞恥に霞んでゆく。
肩をシートに抑えつけ、キスは終わりを告げず、ノワールはあどけないラグの咥内を味わい尽した。
「――ラグ、……ぼくは、本気だって言ったよ――」
その言葉がラグの耳に入ったのは、唇が離れ、抱きすくめられた後だった。
☆☆☆
「……あ…」
ラグは意識を落としていた。
(ぼく、いったい…)
窓を覗くと、耕作地帯が見えた。
(いま、どのあたりなんだろう…)
狂おしく浴びたキスは朦朧とし、現実味がなかった。酸欠になり、意識が飛んだとは当人は解っていない。
咥内に、リキュールの香りが残っている。手の甲で唇を抑え、横を向くと澄まし顔でトリュフを頬張る黒猫が目に入った。
座席テーブルのランチは片づけられ、チョコレートの箱とペットボトルが置かれている。
ノワールのチョコは半数になり、眠っていた時間の経過を告げられた。それほどの時間は過ぎていないらしい。
(勝手だな…、人の気も知らないで…)
ラグは頬をふくらませ、窓辺にへばりつき横を向いた。
「……平気…?」
目覚めたラグに気づき、ノワールは優しく声をかけてきた。
「…………」
返答に困り、視線を逸らしてしまう。
「ラグを見ていたら、なんか…、キスが止められなくて…」
(止められないって…、あんなのキスって言わないよ!)
ラグは幼い上に優等生だ。性行為の知識は無いにも等しく、何が起きたのかすら理解出来ずにいる。
「ラグ…」
ノワールは真剣な眼差しを向けた。
「――ぼくは、本気なんだよ」
甘さを含んだ囁きが、心に沁み込むようだが、
(本気って、何が本気だって言うんだよ…!)
言葉の意図を模索する余裕もなく、ラグはムッとした。
頬を赤らめ、拗ねて見せた少年のあどけなさに、黒猫はくすくす笑い出す。
「意味わかってないし…」
「意味ってなに…?」
「ほらほら、全然わかってない…。あーあ、ぼく、可哀そ…」
「可哀想?」
ラグはムキになる。
「さっきのキス、すごく良かったのに…。ラグも感じなかった?でもわからないか、キスの良さは。まだお子様だし…」
「お子様って言わないでよ」
「苦しいだけだった?……ぼくのキス…」
からかいながらノワールはチョコをつまむ。
「ぼくの舌と、ラグの小さい舌で、一つのチョコを溶かして…」
ノワールは舌先で見せつけ、チョコレートを舐めあげた。舌が艶めかしくトリュフに絡み、横眼で見据えられ、ラグの下肢は竦んだ。
「…可愛い…ラグ。これだけで感じちゃうんだ…」
思いもよらない自身の身体の反応に、ラグはたちまち赤くなる。見せつけるノワールの口元は、見てはいけない物を見た気がして、咄嗟に俯いた。
「…きみ、早く育たないかな…」
「…え?」
呟きにラグは驚き、顔を上げる。
「…………」
ノワールは向いの車窓を眺め、一呼吸置き箱に蓋をした。
「そろそろ次の駅だから、降りようか…」
「次の駅?」
「ビフレストの手前だし」
(まだ、そんなところなんだ…。じゃぁ、ぼくが眠っていたのはたいした時間じゃないんだな…)
俄かに現実が回復し始め、携帯の示す時間を確認する。
「どうしてそこで降りなければいけないのか…、理解出来ないよ」
「理解出来ないって、あのね…」
「ぼくに付き添うのが仕事ならヨダカまでだよ。ぼくはレポート提出をいなければいけないし、予定変更は許されないんだから」
「セントラルにも城はあるだろ?」
「そういう問題じゃない」
「…じゃぁ、これ読んでから言ってくれないかな?」
ノワールは携帯を開き、ラグに差し出す。
「あいつからのメール」
嫌な予感が頭をかすめ、携帯を受け取ると、
『宿泊場所は、ビフレストの手前です。ゴーシュくん、ラグを悲しませないで下さいね』
「――――……!」
イレギュラーな短文に、ラグは殴られた。確かに、宿泊場所は聞かされていない。
「……あ……」
澄まし顔で画面を覗くノワールを、ただただ呆然と見返す。
「地方に行くのは、面倒だと思わないか?どうせ今日中に戻るなら、ここで降りてしまった方がいい」
ラグの思考の中でレポートは吹き飛び、この日初めて、ノワールを視界に入れた気がした。
「―――……し、宿泊って…?」
「ビフレスト近くで一泊二日らしいよ」
「ぼくと、…ノワール、…ゴ、ゴーシュと…」
ラグはすでに何をしゃべっているのか解っていない。頭の中は真っ白だ。
館長から地方の歴史見聞旅行は一泊二日だと聞いてはいたが、宿泊先は任せていた。
案内人は姿を見せず、こともあろうか最愛のゴーシュ・スエードに託され、いざ、逃げ出さないと決めたものの、一緒に泊まることなど微塵も考えていなかった。
正確には、表層の経緯は漠然と解っていながら、言葉を理解していなかったに近い。
「…と、泊まるの…?ぼくと……!?」
「ああ、だからそうだって、さっきも……」
呆然とする幼い少年の頭を、黒猫はやわらかく撫でる。
「まさか、ぼくと泊まるって意味、今、わかった?」
「…うっ…ち、違うよ…!」
言葉に反してラグは顔を真っ赤にしている。
「逃げないんだもんな、…ラグ。優等生だなぁ、きみ…」
ノワールは喉で笑い、ラグに甘え額をくっつけた。
「ね、次、ぼくと降りよ…?」
「ダ、ダメ…!」
「どうして…?」
「レポートが…」
「あいつしか読まないんだろ?」
「…うっ…」
「…せっかく、二人きりなのに…」
吐息混じりの声色に、身体の力が抜けて行く。
「今夜はぼくたち以外、誰もいないよ。……本当に二人きり…」
「…ぁっ…」
膝の上に置いた手を握られただけで、身体が震える。
ノワールの行為や言葉に、流される自分がいる。あらがっても求め続けたゴーシュを前に、封印したはずの想いが開かれ、たまらなく惹き付けられてゆく。
度重なる洗礼のキスを受け、過去を裏切ってさえいるようで、行き先に迷う思いにラグの目に涙が浮かんだ。
「――――……って……」
「…え…?」
「だって、そんなの…」
それ以上は、言葉に出来なかった。
憎しみも愛しさも、幼い日の面影も、すべて今目の前にある。混濁し鬱積した想いを吐き出して、ぶつけてしまえたらどんなに楽だろう、とラグは思った。
だが、繋ぎ止める様にか細く掲げたプライドが邪魔をした。自身の想いを認める恐怖も、幼い心に仕舞い込んでいる。
一言ですべてが終わり、すべてが始まる、ただ言い出せないその一言だけが無性に怖かった。
「…もういい、ラグに任せるよ」
面をくしゃくしゃにし困惑するラグに、ノワールは溜息を吐いた。
「時間は、そう容易くは埋まらない…か…」
「…時間……?」
「離れた時間が長すぎたかな、…最近やっと時間がとれたから、こうしてラグに会えるようになったのに。……今はまだ、本当のことは言えないけど、…いつかまた…」
「え…?」
「――いや、何でもない」
ノワールは義弟の滑らかな頬に唇を落とし、シートに寄り掛かり天井を見上げた。
すらりと引き上がる涼しげな目許が美しく、ラグは切なく見つめる。
(館長は、迷っているなら向き合ってみるといいって、言っていた…。決めるのはぼくなんだ。たとえ、真実がゴーシュ兄さんの口から、今聞かされなくても、ぼくの想いには、決着がつくのかもしれない…)
「あの……」
「……ん?」
「ノワール…。ううん、――ゴーシュ兄さん…」
迷いが残る声音で、ラグは告げた。
「ぼくは、――――ゴーシュとの時間を、選びたい」
選びたいと思うよう、ラグは自分に言い聞かせた。
選ばなければ、共に過ごせる時間は金輪際巡って来ないとさえ思う。
「そうか…」
幼い日の思い出に残る、やわらかく解けた笑みを向けるノワールに、ラグも戸惑いながら微笑みを返す。
刹那のつながりを見せた彼らに、到着を告げる車内アナウンスが流れた。