黒猫はホテルにほど近いミュージアムショップへラグを連れ出した。
ショップはオルゴール博物館や、ノスタルジックな雑貨店、レストランが併設している。ぐるりと一周し手頃なカフェで軽食を取り、散歩がてらにホテル周囲を散策し、当惑しながらもラグは黒猫に続いた。
(いったい、いつまで手を繋ぐんだろう…。ぼくたち、変に思われないのかな…)
ノワールは、小さな手を離そうとはしなかった。
(細かいこと気にするなって、言われても…)
何度も話しかけようと思ったが、呟かれた言葉が引っ掛かり、ラグは切り出せないでいた。
「ラグ、そろそろホテル行く?」
「う、うん…」
チェックインの時間となり、ラグの身体が強張りを見せる。
「緊張するなって、優しくするから」
「…ゴ、ゴーシュ…、あの…」
ノワールの冗談は軽く流し、ラグは神妙に尋ねた。
「ほ、本当に…、その…、お、温泉に一緒入るの…?」
緊張気味のか細い声に、ノワールはクスクス笑いだす。
「さっきからなにを気にしてるんだ?特別、見られたくないワケでも?」
「だって、は、恥ずかしいよ。一緒のお風呂は久しぶりだし…」
ラグの本心だった。
取り立て、弄ばれる想像力も恐怖心もなく、同性なのだから気にする必要もないのだが、ただ、焦がれた兄に成長した肢体を見られるのが、無性に恥ずかしい。
肩をすくめるラグに、黒猫のよこしまなアンテナが反応する。
「ぼくは見たいな、ラグの…全部。もちろん、……大切なとこも…」
艶っぽく、耳元で囁かれ、ラグの顔が一気に赤くなる。
「――――…ゴ、ゴ、ゴーシュ兄さん…っ!!」
「…あーあ、すごい真っ赤…。本当に可愛いな、ラグ、そういうとこ変わってなくて。…心配しなくてもぼくが、ばっちり洗ってあげるよ」
抗議はあしらわれ、ラグは泣きたい気分になってくる。
「ぼ、ぼくは本当に一人で入れるから、…いいよ」
「どうしようかな…」
二人は打ち解けつつあるが、ラグは気が気じゃない。ホテルに入り部屋に案内され、空気はさらに優等生の意志に反してゆく。
(確かに…、二人きりだしゆっくり話せそうだけど…、こんなのって…)
ホテルマンに二人が案内された部屋は、厳かな離れ屋だった。
(……か、帰りたい…)
離れ屋に到着し、ラグはさらに落ち込みを見せる。
「著名人が建てた別荘を、移築したものだって」
ノワールはホテルマンの説明をそのまま伝えた。
ラグは館長を呪いたい気分だ。
平屋造りの洋館とはいえ、リゾートホテルの離れである。相応の接待が約束されているが、ノワールと鳥籠に押し込まれたようだ、と思った。
離れはリビング、ベッドルームが二つ、ゲストルームまである。
浴室は室内と、ノワールが連呼していた露天風呂がついている。長期滞在を目的とした設えではあるが、無駄のない品のいいシックな装飾がリゾートさを残していた。
「夕食の時間まで、ヒマだな」
「これ、整理してくる」
ラグは届いたボストンバックをベッドルームに運んだ。ノワールの手荷物はないらしく、手持ち無沙汰気味に部屋をうろついている。
黒猫は室内を見回る一方で、ラグのご機嫌伺いの機会を待っているといったところだ。
ラグはベッドルームのドアを薄く開いたきり、すぐにリビングには戻らなかった。
離れ屋周辺は木々に囲まれ、小鳥のさえずりが耳に届く。それ以外の音という音が消えてしまったような空間。
広い室内に、ノワールのわずかな足音だけが聞こえているだけだ。
「……妙に、静か…」
気配を消した義弟が気になり、ノワールはラグが選んだベッドルームにこっそり近づいた。
「ラグ…?」
黒猫は忍び足だ。
「どうし……」
半開きのドア越しにベッドに横たわるラグが見えた。目を瞑り、ぐったりしている。
「――――ラグ…!?」
ラグの様子の変化に、慌ててノワールは駆け寄った。
「ラグ、おい…」
「…あ…」
揺り起こす傍ら、ラグはふわりと瞼を開く。
「具合、悪いのか…?」
「…ううん…、平気…。横になったとたんに、眠ったみたいで…」
ラグは眼をこすり睡魔に魅入られたらしく、ぼんやりしている。
室内に入るなり、緊張を解きほぐすふかふかのベッドに横たわり、呆気なく眠りに落ちていたらしい。
「驚かすな」
「……ごめ…ん…なさ……ぃ…」
ラグは一向に目覚める気配がない。瞳を潤ませ、ぼうっとノワールを見つめている。
「疲れたんだな…。少し、眠るといい…」
「…ん…」
ベッドサイドに半身を預けていたラグを軽々と掬いあげ、掛布を剥ぎベッドに横たえた。
見聞旅行の姿は、ラグにしては珍しく軽装だった。羽織っていたものはパーカーのみで、ジッパーを僅かに下げると薄い胸元が見える。
すらりとしたうなじが目に留まり黒猫は喉を鳴らしたが、息をひとつ吐き、誘惑を振り払い被りを振った。
配慮し靴下も脱がせ、ショートパンツのベルトも外し、優しい兄のようにやわらかく掛布を掛ける。
「おやすみ…」
「……ん…」
軽く溜息を零し、ドアノブに手を掛けた矢先だった。
か細い声が聞こえ、ノワールは振り返った。
「……待って……」
「――え…?」
「……行かないで…、どこに行くの…」
「どこにも、いかないよ…?」
「…おいて……か…ないで…」
稚さが残る声音に、ノワールはハッとする。
「…ラグ…?」
「…………」
返事はなかった。
ラグは寝息を立て、眠りに落ちている。
「寝言…?」
ベッドサイドに戻りラグ・シーイングを見つめ、柔らかな髪をひと撫ですると、少年の呼吸がさらに深くなった。
「――――ゴーシュ…兄さん……」
ゴーシュの名を呼ぶラグの眼もとから、ひとしずくの涙が落ちた。
「…………」
ノワールは涙が流れるさまを、切なく見つめた。
「夢、見てるのか…、あのときの…」
ラグの発した言葉は、ノワールの記憶にも鮮明に残る台詞だった。
幼い日、ラグのもとを離れた記憶。
四年前、小雨混じりの早朝。
旅支度をし、意図を語らずそっと家を飛び出したゴーシュを見つけ、裸足で泣きながら追い掛けてきた小さな義弟、ラグ・シーイング。
別れが辛かったのはゴーシュも同じだ。
実の弟のように可愛がり、後を着いて回ったあどけないラグと、笑顔が絶えなかった家族を忘れた日はなかった。
ラグはおませな妹とは違い、男の子らしく屈託なくゴーシュに接し、どこへ行くにも一緒だった。
ぺたぺたと甘える仕種は孤児ゆえのさみしさかと思ったが、ゴーシュが家族として受け入れた結果に、ラグはありったけの愛情で応えているのだと悟った。
素直に真っ直ぐ愛情を注ぐラグに、ゴーシュは癒され、義兄弟のこころは紡がれた。
だが彼は、――ある意味、家族への裏切りを命ぜられ、それに従ったのだ。
一年前に再会を果たし、日増しに愛らしくなる容姿に触れ、容易く心は奪われた。
義弟としてだけではなく、もっと深い繋がりを求める相手として。他の選択肢は無意味とさえ思えるほど、離れた時間に不安が増した。
無情にもゴーシュに向けられた義弟の瞳は、疑念に揺れていた。無理もないのだ、四年間も放置していたのだから。
けれど、それだけではない、なにか。
ゴーシュはラグの瞳の奥に覆い隠された、うらめしい眼差しが焼き付いていた。
未だに守護を必要とする少年は、必死に自我の追い求める心を模索していた。
義兄を捉えた瞬間、理性と鬱積した心が同時に砕けた刹那の想いを、幼い弟は涙すらこらえ呑み込んだのだ。
失った心はそう簡単には戻らないと解ってはいるが、それ以上に秘めた想いが残っていた、とノワールは感じた。
愛しく恋しいと、互いに想っているからこそ感じ取れるもの。ラグ・シーイングは愛情に飢え、根底は焦がれている。
もしも真実を告げられたなら、笑顔は戻るのだろうか。
自問自答したが答えは出なかった。
今はまだ、真実を語れないノワールがいた。
ポーカーフェイスを気取り、苦笑いを浮かべラグの頬を掌で覆う。
「今日だけは、お前のものだよ…」
微笑んだ面は、ラグが求めてやまない穏やかで清麗なゴーシュ・スエードだった。
「――ラグ……」
ノワールの唇がラグの頬に触れる。
黒猫はベッドサイドで寝顔を眺め、愛しい弟の目覚めを待った。