(ここで間違いないはずなんだけど…)
列車の発車時刻まで、あと数分。
ラグ・シーイングは一昨日手元に届いた、チケットの座席を探していた。
館長が奮発してのグリーンシートである。辿り着いた車両は大きめの座席が整然と並び、人の気配もなく貸し切りに見える。
これから一泊二日、館長に同行して地方の歴史を学ぶ二人きりの小旅行に、ラグは幾分緊張していた。
リベラルな館長ことラルゴ・ロイドは、年頃の少年や珍獣を見つけると見境がなくなる癖がある。
地方で誰かしらを追いかける館長を見失わないよう監視をしつつ、レポート用の歴史見聞をしなければいけないなんて、イメージだけでどっと疲れが湧きあがってくる。
館長からは『車内で待ち合わせしよう』、と昨夜メールが届いていたが、指定座席も空席。どうやらラルゴ・ロイドは、遅れているらしい。
仕方なく座席に身を沈め、車内アナウンスに耳を傾けた矢先、慌ただしい車掌の声が聞こえた。
(館長、どうしたんだろ…まさか、乗り遅れた…?)
発車を知らせるベルが鳴り、館長を待たずして列車は無情に動き出す。
思わずラグは身体を乗り出し窓を覗いたが、すでに構内を過ぎ、車両は路線へ流れ出た。
列車は特急とはいえ、各駅停車に近い。行き先が分かっているのだから何も焦ることはないのだが、門出に不安が募ってくる。
携帯電話を片手に持ち、連絡を取ろうと立ち上がった途端、車掌が訪れた。
館長の事情を告げようと思ったが、乗り遅れがどうなる訳でもなく、大人しくチケットを差し出し車掌を困惑気味に見送った。
(次の駅で待ち合わせ、…で、いいかな)
再び携帯電話を片手に立ち上がる。入口に視線を送ると、長身のシルエットが映っていた。
(――館長?)
「――――…あ…」
ラルゴ・ロイドではない。焦りすら吹き飛ぶ人物がそこにいた。
スレンダーでしなやかな肢体を漆黒に包み、氷の瞳を持つ略奪者。
「――ゴーシュ、……兄さん…?」
携帯は手元から、力なく抜け落ちた。
軽い音を立て床に滑り落ちたが、ラグは気づかず凝視したままだ。
(――違う、ゴーシュじゃない…。この人は、もうぼくの家族じゃないんだ…。ノワールって名前に変えたって、前に会った時に、一方的に云われたんだ…)
ノワールは気づいた素振りも見せず、車窓を眺めながら車内に踏み込む。
一歩一歩近付くにつれ、ラグの身体は強張りを見せた。座席が気になり目が逸らせない。
(え?席、こっちなの?)
慌てて素知らぬ顔をし座席に身体を落としたが、意識は明らかにノワールを追っている。
(何してるんだろ、ぼく…)
息を潜め外を見るそぶりで、こっそりと通り過ぎる姿を覗く。彼は気にも留めず、すらりと横切った。
「…はぁ…」
深い溜息とともに、頬に帯びた熱を感じる。
(ゴーシュ、どこに行くのかな…)
背後が気になり怖々覗いてみたが、すでにノワールの姿はなかった。
微弱な寂しさが湧きあがり、平静を取り戻すよう被りを軽く振る。
今は乗り遅れた館長と、連絡を取らなければならない。携帯を拾い通路へ飛び出す手前、ラグは後部座席に違和感を感じた。
ハッとし、視線は吸い寄せられ、痩身は一瞬で凍て付いた。
ラグの後部座席を陣取り、憮然とする黒猫はかつての白猫ではない。
「――…っ!ノワール…」
「まさか、気づいてないとでも?」
拗ねた表情の裏の、揶揄かう囁きに身が竦む。ラグはジリっと一歩引き下がり、固唾を呑んだ。
「…………」
「相変わらずだね、きみの態度は…」
黒猫はますます拗ねてみせ、ラグの様子を伺う。温度の感じない氷雪の視線が絡まり、その眼にぎくりとした。
隠し秘めてきた想いを覗かれたようでラグは視線を逸らす。
「どこに行くんだ?ラグ」
「……どこだって、いいだろ…」
「あいつなら、来ないよ」
「――え…?」
「君の保護者。メール見てないのか?」
館長のことを思い出し慌ててメールチェックをし、書かれた文面にラグは青冷めた。
『確かなものは、自分の中に眠っているもの。それを確かめるのも自分。狭間で迷っているなら向き合ってみるといい。どんな結果であっても選択したのは君の意思なのだから。ぼくは今回イベンターに回るとします。ゴーシュ君との旅行、楽しんでください』
最後まで読み終わらないうちに、軽く眩暈がした。
ノワールに惹かれながらも、受け入れられない心があると館長に悟られたらしい。押しつけ紛いの配慮だが、突然の二人旅行は、ラグにとって拷問に近い。
(旅行って、そんな…)
その反面、蜜色の戸惑いも生まれた。過去、ラグ・シーイングに光景を教えたのは、紛れもなくゴーシュ・スエードだ。
ラグは孤児院育ちだった。
孤児院と併設していた国立図書館でラグと顔見知りとなった館長、ラルゴ・ロイドが身受け人。
ラルゴ・ロイドとゴーシュは親戚筋にあたる。ゴーシュ・スエードがラグと同年齢の妹がいるのをいいことに、微かに物心ついたばかりの少年を半ば彼に託し、彼らは兄弟のように年月を過ごした。
だが四年前、ラグを残し義兄は失踪した。
幼い日、一緒に暮らし兄と慕ったゴーシュ・スエードは、今や名を変え、反政府組織に身を宿すテロリストだ。情報が入り否定したが、紛れもない事実だった。
突如姿を消したゴーシュにいったい何があったのか、失踪劇の理由をラグは知り得えるはずもない。
一年ほど前から一方的な接触の合間にも、わだかまりはとれず、未だに真実を訊けずにいる。
国家公務員を目指すラグにとっては、ノワールは反組織の人間。気が許せる訳もなく、逢いまみえるたびに反発心を剥き出しにしていた。
この気持ちは自分ではどうにも出来ない、とラグは子供ながらに理解している。それは、心優しく穏やかで、誠実な義兄の記憶が色濃く残っているからだ。
彼は略奪者、民衆を惑わすレジスタンス、と言い聞かせ、数年。並行するように離れた時間はラグの幼心を侵食し、ゴーシュを欲し続けている。
実の兄弟ではないからこそ憧れは小さな胸をざわつかせ、甘く歪みを帯びた剣が心臓を貫き、危険な薫りのするノワールを追っていた。
要注意人物でありながらも、心地良さを感じる穏やかな声音は昔のまま。彼の口からすべてを語られなければ、剣は抜けやしない。
(――ゴーシュ兄さん……)
いざ向かい合うと、幼い日の面影を辿ってしまう。
別れて暮らした期間の寂しさを、容易くリセットしてしまうかのように。
「それ、そんなに長文?」
ラグはしばらく文字を追えず、立ち尽くし、画面だけを見つめていた。ふわりとノワールは立ち上がり、携帯を覗く。
「あいつ、なんだって…?」
ラグの肩に銀糸が触れ、携帯を持つ手に細く長い指が重ねられた。体温が伝わり、とたんに鼓動が速くなってゆく。至近距離の端麗な面から目が離せない。
「ラグ…?」
「…あ、…な、ど、どうして、お前が館長の変わりなんだ…」
辛うじて発した声はうわずり、動揺は隠せなかった。その様子にノワールは眼を細め、ラグの耳元に唇を寄せる。
「ああ、その話?――ぼくじゃ、役不足?…ラグと会えるの、結構楽しみにしてたのに…」
吐息混じりに囁かれ、耳朶が紅色に染まる。
ノワールの声は、ラグにとっては何よりも効果的な武器。清麗でありながら、なまめかしさも入りまじる声色に、小さな身体は身震いした。
「…可愛い、ラグ…」
「……っ!」
たらしっぽい口調に耐えかね、たちまち頬が高揚する。
幼い日の『優しいゴーシュ兄さん』の人格は何処へやら、少年すら口説きかねない『ノワール』は手に余りそうだ。
絡められる視線をむりやり押し退け、ラグは元の席にへたり腰を戻した。
(館長…、これは、イジメだよ…)
続けざま、サイドに黒猫が座り、いたずらに覗かれる。
「そこの、席は…!」
「メールに書いていなかった?二人旅行って。ぼくが保護者の変わり」
「し、知らない…!」
「ラグじゃなかったら、旅行には付き合わないよ?」
言葉は信じられる訳もなく、ノワールに背を向け窓際の隅に身を寄せる。
「信じない?」
「…………」
「結構、本気なんだけど…」
(――ゴーシュの声を聞いただけで、今までのこと忘れちゃいそうになるのに、――どうしたらいいんだろ…)
一泊二日どころか、こんな会話を続けられたら、自我は崩壊しそうだ。
ラグは居てもたってもいられず、次の駅での下車を決め、ボストンバックに手を伸ばす。
「こんな旅行は理不尽だよ!!――ぼくは、次で降りる…!」
ノワールの前で突いて出る言葉は、いつもこの調子だ。放置された反発心をむき出しに、瞳に疑念を浮かべ素直になれない。
「ラグ…」
「――あっ…!」
立ち上がった瞬間、右手首を掴まれ、ラグは呆気なく座席に引き戻された。
滑り倒れた体勢の上に肢体を重ねられ、ノワールの冷淡な眼差しに、喉が竦み上がる。
「……ね、一人にするの?」
薄く開く唇は、間近にある。
少しでもお互いの姿勢をずらしたら、触れられそうな距離。
軽く伏せられた琥珀色の瞳に見据えられ、視線が外せない。
「ぼくから、逃げたいんだ?」
声音は挑発を含んでいる。
組み敷かれている体勢、覗かれる心、追ってしまう『ゴーシュ兄さん』、ラグが逃れたいのは、そのすべてだった。
答えを知った上で使われる言葉、プライドを弄ぶ悪戯な唇を呪いたくなる。
「――ぼ、ぼくはただ、…館長の遊びだって分かったから、降りるって…」
「ふーん、そう?やっぱり、逃げたいんだね」
「逃げたい…?」
「ぼくから、逃げたいんだろ…?」
「違う!逃げない…!」
(本当はゴーシュと、ゴーシュ兄さんと一緒にいたい…。だけど、それは許されない。ぼくの心を読まれそうで…、ぼくは怖いんだ…。なのに…)
反する想いに、じわりと涙が浮かぶ。
「…ぼくが、ノ、ノワールから逃げたいなんて、思うはずないよ…」
「それ、どういう意味?」
「――…………」
「イヤなことから逃げるのは、卑怯者だよ」
「お、降りただけで卑怯者と云われるなら、降りないよ…!」
絞り出した言葉は掻き消えそうに弱々しく、意味を成していなかった。
ノワールにあおられ、ラグは悔しく唇を噛みしめる。言ってしまった以上取り消せはしない。
「頑固なところも、相変わらずだ」
「……え…?」
一瞬、ノワールは解かれた笑顔を浮かべた。
その微笑みに突かれたが、すぐさまベールを下ろし冷やかなテロリストの面を出す。
「何があっても逃げないって?」
「…そうだ、だからもういいだろ」
観念し、座席に縫いとめる身体の解放を望んだが、握られた手首は強く掴まれたままだ。
吐息さえ感じそうな間近の唇に、妖艶な赤い舌が覗いている。
見てはいけないと分かっていながらも、形のいいフォルムを辿ってしまう。
「…くちびる、気になる?」
ノワールの囁きは甘さを含んでいた。
「ラグ、久しぶりに、キス…したくなった…?」
「――……っ!?」
まやかしを孕んだ唇は、ラグを捉えたままふわりと重ねられた。
羽が舞い落ちた、やわらかく軽い感触。
幼いころ、ゴーシュとシルベットがキスしているのが羨ましく、自らせがんでいた唇の記憶が鮮明に蘇る。
「キスするの、好きだったよね…」
「…ち、違…ぅ…」
無自覚に求めていたものをわざと引き出され、続けざまに唇が落ち、ノワールを押し退けかけていた肢体は力を失った。
自尊心を弄んだだけではなく、記憶までも掻き回され、じわじわと哀傷が広がってゆく。
「ぼくも、嫌いじゃなかったな。……今の方が、イイけど…」
「…よく、な…っ…」
小さな唇は、再び言葉を呑まれた。
「…………」
軽く開いていた唇にノワールの舌先が触れ、ためらいがちに見つめられる。
(瞳の色は、変わらないのに…)
閉じかけの琥珀は、ラグの瞳に張り付けられていた。
このままノワールに見つめられたら、気がふれてしまいそうでラグは長い睫毛を落とす。遮断したことで、肩が微弱に震えていると分かった。
「――ラグ…」
「…ん…っ…」
低音の囁きに華奢な肢体は竦み、疼きが下肢へと流れる。
ラグは甘美の正体を、今はまだ知らない。
「…もうすぐ、次の駅だけどいいのか?別に、逃げても構わないよ…」
優しさと、迷いが現れた声色。からかうのではなく、まるでラグを察する声だった。
ノワールの様子の変化に瞼をそっと開くと、光が溶け広がる視界に『ゴーシュ・スエード』が見えた。
ひととき閉じていただけで、胸の内に秘められた切ない想いが切迫し、
「……ゴーシュ…、兄さん…」
ラグの唇は、無意識に発した。
「…え?」
「――あ…っ!?」
(……ぼく、今……なんて……?)
「まだ、その名でぼくを……?」
「ちが…っ、ノワー……ル……」
たまらなく好きで抗えないと自覚し、ついて出た言葉に泣きたくなってくる。
「――子供がそんな眼で、大人を見てはいけないよ…」
「へ…?」
潤みきったラグの瞳は雫を零しかけ、かつての義兄を誘うように揺らめいていた。
「でも、少しは成長したんだね、ラグ……」
「……?」
車内アナウンスが停車駅を告げる。
ノワールはラグの額に軽く唇を落とし、小さな身体を解放した。