SECRET×SECRET
[6]

ノワールに弄ばれ一時間あまり過ぎ、夕食が離れに運ばれたが、ラグは食欲が湧かなかった。
無理矢理テーブルに座らされ、辱められた相手と対峙し、力なくがっくりと俯いている。
失神し目覚めた後は、ホテルのパジャマに着替えさせられていた。
身体もさっぱりと拭かれていて、知らぬ間にあちこち見られたのかと考えただけで、極度の羞恥心に自失しそうだ。
列車でキスを受けたあと眠っていたと思っていたが、黒猫の容赦ないキスのせいで気を失っていた、と鮮明に理解したらしい。

「食べないのか?」
「………………」
「――ラグ…?」
「…………気分じゃない…」
ラグは抗えない情けなさも募っていた。
ノワールは澄まし顔で次々とコースを口に運び、ラグの落ち込みはスルーされている。
(ゴーシュ兄さん…、何が楽しくて、ぼくにあんなことを…)
俯き膝をじっと眺める。
目を瞑っても、首を振っても自分の声とノワールの指先が頭から離れない。
思い出すだけで、身体の熱がよみがえりそうだった。
(ぼくはゴーシュのおもちゃになるために、同行したわけじゃないのに…。あ、あんなことして、ぼくのこと可愛いとか…って、絶対変だ…!第一、ぼくは男なんだぞ…)
ラグにとっては謂われない悪戯だ。
初恋の相手、と断言出来るゴーシュ・スエードに抱いていた淡い想いとは裏腹に、優等生の少年には刺激が強過ぎた。
性知識がないラグにとっては、手痛い戯れに映っている。
「なぁに、怒ってるんだ…?」
「………………」
態度の変わらないノワールに、ラグはいらつき横を向く。
「エッチなことしたから、拗ねてるの?」
「――――…っ…!」
あからさまに言われ、肩を戦慄かせる。
「だってあれは…、ラグが起こしても起きなかったのが、悪いと思うけど…?」
「…っな!」
「ぼくは、散々ガマンしたんだ。ラグが起きるまで、ずうっと寝顔見てて、本気でする気はなかったのに。…寝ぼけて離れなかったのは、誰だっけ…?」
「…う…っ…」
ラグはとたんに小さくなる。
「キス慣れしたみたいだな。ぼくに合わせて舌を絡めてきて、可愛かった」
「か、かわいいって…、言わないでよ…!!」
顔を上げラグは反論したが、真向かいに座るノワールと眼が合い、とたんに頬がかぁっと熱くなる。
黒猫は唇を僅かに引き上げ、不敵に笑った。
「そういう態度が、可愛いって言ってるんだ」
「ぼ、ぼくは男なんだ。かわいいって言われるのは精々幼稚園位までで、…来年は十三歳で、……もう、だ、だから…、そ、そんなにぼくを見て笑わないで、ゴーシュ兄さん…!」
ノワールはニヤついていた。
「ラグの可愛いところは、子供の無邪気な可愛いさとは別もの、ってわからない…?」
「――……?」
ラグは困惑して上目使いをする。
「そういう顔とか、仕種とか、…食べたいくらい可愛いってこと」
囁くように言われ、ラグの腰が竦む。言葉に反応した身体を、ノワールは鼻で笑った。
「やっぱり身体は素直だな…?違う?」
「す、素直って…」
「すごく可愛かったのに、…敏感な、ラグ……」
ノワールに意地悪く言われ、意味も分からず体の芯がジンと熱くなる。
「へ、変だよ…、ゴーシュは……」
「変?」
「何が楽しいの…?」
「なにって…」
子供の反論にノワールは眼を細めた。
「ぼくは……ゴーシュとあんなこと…!」
「今日は、ぼくとの時間を選んだんじゃないのか?」
制するノワールの言葉にハッとした。
(そうだ。地方行きを断念して選んだんだ…。そうしてまでぼくは…ゴーシュ兄さんと過ごす時間に何を求めていたんだろう…。口論したいわけじゃない、もっと、前みたいに…)
ラグの瞳が翳る。

(――――ぼくは昔みたいに……、 やさしくしてほしいだけなのかもしれない――――)

「…っ…う…」
 自分の想いに気付き、ラグの目許から一気に涙が溢れ出す。玩具のように扱われた時間の歪みが、感傷的にもさせているのは否めない。
「どうして、泣くんだ…」
「わ、…っわからないよ…!勝手に…っ…な…涙が…」
「…ったく、きみは…」
溢れる涙は止まらなかった。何度拭っても溢れ出て、ラグの頬を濡らす。
「…っ…えっ…」
ラグは泣き出す自分が女々しく、情けなかった。

(…ぼくは単純に、ただ一緒に…、一緒に居たいだけなんだ。ゴーシュ兄さんが笑い掛けてくれて、いろんな話をしてくれたり…、そんな他愛のない時間が欲しいんだ…。だけど…今はもう…、そんなのは望めないから。……だから…)
「ラグ…」
「…あっ!」
涙を拭う手首を不意に掴まれ、ラグはよろけた。
「ったく…、手が掛かるな、きみは…」
ふわりと与えられたあたたかな感触に、痩身が固まる。
「誤解するなって、言わなければ解らない?ラグ・シーイング?」
「――……え?」
ラグはノワールの腕の中に、抱き締められていた。華奢で幼い身体がすっぽりと収まる広い胸に抱き止められ、ラグは肩を強張らせる。
「…ゴ、ゴー…シュ…?」
見上げるとノワールの琥珀が、困惑し揺れていた。
「どうして泣くんだよ、自分で言い出したんだろ…?」
「…………」
尋ねられ、ラグは静かに頷く。
「あーあ、涙で顔がぐちょぐちょ…」
「…っん…」
ノワールは涙を親指で拭った。
滑らかな頬を拭き、掌で覆われる。視線を交わすだけで、ラグの心拍数が上がる。
(ゴーシュ兄さんに見つめられると、なんだか、恥ずかしい…。あんなことされたからかな…。どうしよう、胸が苦しいよ…)
涙に濡れた睫毛を瞬かせるさまを、ノワールはやさしく見つめた。
「いろいろ、履き違えるなって。ぼくのものにしたいって、何回言わせるんだよ」
「ぼくはものじゃない…」
「ふつう、その返しはナシだって」
「…ぁ」
瞼に唇が触れ、ラグは咄嗟に閉じた。
「ホント、見た目よりもまだまだ子供だな。天然だし、ね」
ノワールはからかい、クスッと笑う。
「天然はゴーシュの方だよ」
ラグはムッとした。
「言ったな、ラグ・シーイング?」
ノワールはラグを抱き止めたまま、膝の上に乗せ、椅子に腰を落とす。
「フ、フルネームで呼ばないでよ…!」
「……じゃぁ、――――ラグ……?」
「…っ…」
耳朶が震える甘い声で囁かれ、ラグは痩身を竦ませる。
「きみの保護者にラグを渡したくないんだけど、まで言わないとダメ?それと、きみの同級生にも…」
「――同級生?」
ノワールの目にラグはドキッとした。鋭くも悪戯な視線だった。
「み、…みんながなんだっていうの?」
「きみを狙ってるって、知らないワケ?」
「狙う……」
ラグは訝しくつぶやく。
「それはないよ。国家公務員を目指すぼくたちをレジスタンスが狙うことはあっても…」
「そっちじゃなくて」
即答され、ラグは小首をかしげた。
「必要以上同級生に身体を触らせるなよ…?好奇心旺盛な、ガキどもに」
「それは、ぼくがよくつまずいてあちこちぶつけたのを慰めてくれてるっていうか…」
「ふっ、なんだそれは、そんなに転ぶのか?きみは」
天然ラグにノワールは苦笑いをする。
「あっ、少し運動が苦手で…、わっ…!」
恥ずかしげに身体をすくめた刹那、ノワールは小さな身体をテーブルの片隅に押し倒した。

「――――ラグ…」

ノワールの喉が鳴った。
焼き付けるように少年を見つめる瞳は、熱っぽさを秘めていた。ノワールの視線は、ラグの可愛らしい目許、可憐な唇を辿り、再び透清な琥珀色の瞳を捉える。
「…本気でヤバいな、ぼくは…」
「……?」
「……ん」
「………………」
組み敷かれ、ラグは言葉を待った。
ノワールは瞼を伏せ、視線をそらし、言えない想いを呑んだ。
(ゴーシュ兄さん…?)
綻ぶようなやわらかな笑みを見せ、ラグの唇にふわりと同じものを重ねる。
「泣き止んだね…?」
「――あ…!」
目を丸くしたラグをノワールは抱きあげ、椅子に戻しフォークを渡す。
「ほら、しっかり食べないと夜中にお腹がすくだろ」
「…うん…」
ラグはぼんやりと、甲斐甲斐しいノワールを流し見た。
(なにか、言おうとしてたのかな…)
ノワールは席に戻り、何事もなかったかのように食事を続けた。

大切な話があったのではないか、とラグは少しだけ後ろめたい気持ちになった。
所詮、子供扱いだ、と思う。それはまだ許容範囲でしか物事を測れない幼さであり、寂しさだった。
ときより視線を交わし、微笑まれるたびに言葉を待ったが、義兄からはなにも告げられることはなかった。


☆☆☆


(あ…、また…)
甘酸っぱくも苦々しい思い出が残るスィーツ。
いかにも甘そうな、チョコレートソースたっぷりのショコラクレープがコースのラストだ。
(さっきはチョコレート食べさせてほしいって、いってたけど)
ちらっと向かいを確認し、不意に眼が合いラグは当惑した。
「なに?」
「チョコレート…、たぶん残るから…」
ラグはクレープにかけられたチョコを掬い、ノワールにスプーンを差し出す。
「――ぼくに?」
ノワールは差し出されたスプーンに一瞬驚いて見せたが、鼻白みラグに応えた。
「今度は食べさせてくれるのかな」
「…え、あ…、…うん…」
車内で抵抗した後のキスを思い出し、ラグは赤くなる。
形のいい口元がスプーンに近づき、ラグは微かに緊張したが、ノワールはからかいもせずそれを満足気に舐めあげた。
「…おいしい?」
「ラグが食べさせてくれたから、おいしいよ」
「…………」
やさしく微笑まれ照れくさく、返す言葉が見当たらない。慌てて手を引きクレープにナイフを落とすと、ショコラケーキとフルーツアイス、とろける生クリームが顔を覗かせた。
「……ゴーシュの好物が、凝縮されたみたいなクレープだね」
ラグは怪訝そうだ。
「凝縮…?」
「うん。だって、これでもかってチョコが、あ、このショコラ、濃いよ…!」
義弟のぼやきに、ノワールは我慢しきれずクックッと笑う。
「なにがおかしいの?」
「…たしかにそうだ、うん、…凝縮ね」
テーブルに同席するラグも好物だ、と言ってしまいたいが、困り果てた顔でデザートを口に運ぶ仕種がほほえましく、ノワールは含み笑いをしラストオーダーを楽しんだ。


二人にとって何気ない穏やかな空気は久しぶりだった。
口許がすっかりほころんだ義兄と、惹かれる想いを隠しながらも、やわらかな空気に包まれたテーブルが心地いいと感じるラグ。
お互い口数が少ない中、微かに心はリンクしたようだが。
「憶えていないかもしれないけど、……前にさ、ぼくが風邪をひいたときに、シルベットとラグがスープを作ってくれて、食べさせてくれたね。だけどその中に、ぼくがチョコレート好きだからって、チャウダーなのにチョコが入っていて」
「ウソ…!そんな酷いの作ったことないよ…!」
「じゃぁ、シルベットが隠れて入れたんだと思う。幸い味覚が壊れていたから、味はよくわからなかったんだけど…」
慈愛の眼差しでラグを見つめ、
「…二人で食べさせてくれたから、とても美味しく感じたんだ、あのスープは…」
ノワールは思い出に浸り語った。
「…………ゴーシュ…」
「ラグ、信じてもらえないって分かっているけど、…ぼくがきみたちを、ラグを大切なのは昔と変わらない。温かな食事も忘れた日はないよ」
「…………」
「少しはレパートリーが増えた?」
ラグは無言でうなずいた。
「今でもシルベットがスープを…?」
「……うん…、一昨日は創作料理なんだって、ポトフにマグロを…」
「ハハハ、それを食べる役はきみなんだろ?」
ノワールの笑顔に反して、ラグの面は哀傷に沈んでいる。
「…………食べに、…帰ってきてよ…」
「――え…?」
「ぼくばかりにシルベットのスープ食べさせないで、……ゴーシュ兄さんも…食べに…帰ってきて…」
「ラグ……」
「シルベットは毎日欠かさず、ゴーシュの食事もテーブルに置いてるよ…。――お兄ちゃんは仕事が終わったら帰ってくるから、心配しなくていいって…、だからいつでも食事ができるようにしておかないと…って…。でも…ぼくは…シルベットみたいに強くないし、ゴーシュが家に帰ってくるなんて考えられない。……だって、ゴーシュは、シルベットには会ってないもの。ゴーシュと、シルベットは本当の兄妹で、き、絆があるから、何があっても、会わなくても信じられるんだ。だけどぼくは…」
言葉を吐き出しながら、ラグの目許から再び涙が溢れ出す。
「……ぼくを捨てたんだって…、そう思ったから…」
「……ラグ…!」
「ゴーシュにはわからないよ…。ぼくは憶えてるんだ、ぼくを置いて家を出て行ったお母さんを…。ぼくはお母さんのいなくなった家で、何日も何日も帰ってくるのを待ったんだ。ずっと待っても…、待ちくたびれて眠れなくなっても…、お母さんは帰って来なかった…。――ぼくをひとり…置いたっきり…、帰らなかった…。本当の家族の前には…失踪したひとは帰らないって……、ぼくはわかってる…。どちらかなんだ、信頼がそこにあるか、…切り捨てるか…」
過去に沈んだラグを、ゴーシュは黙視する。
「…今日の旅行も館長に言われたから、仕方なく来たんでしょう?…捨てた人間はどう扱ったって心は痛まない、それがレジスタンスのノワールだもの…」
「……ラグ、……つまらない話はよそう…」
「だったら、ぼくに笑い掛けないでよ…。むかし話をして、楽しそうにしないで…。ゴーシュ兄さんの笑顔を見ただけで、ぼくは時間が戻ったみたいで、……もっと、一緒に……ずっと……」
穏やかな空気が一気に翳を帯びた。
ラグは鬱積した想いの一部を吐き出し、席を立った。孤独のもう一つの理由は言えずに、ベッドルームに向かう。
ノワールは呼び止めようと口を開いたが、泣きじゃくる義弟を追えなかった。
現在の肩書は自身が選んだもの、という世間の印象は消せやしない。そう振る舞うことで欺いて来たのだから。
血縁の家族ですら欺き続けなければならない、極秘任務が彼の国家公務員としての仕事だった。
『潜入捜査員』
略式でスパイと名乗る以上に任務は重い。
潜入間近には記憶操作をされ一定期間、すべてを喪失される。実際、ゴーシュ・スエードの記憶が戻ったのは一年前だ。
国家警察や軍圧により、テロリストの動きは終息に向かっていた。
開放を掲げたが敗れ、ゴーシュのテロリストとの接触時間も始終ではなくなり、互いの監視は減った。
任務が終わるまであと一か月。
たとえ、任務から解かれたとしても、事実は語れない立場にいる。

(一度失った信用は…取り返せないか…。ラグの生い立ちが余計にぼくたちの関係を難しくするなんて…)

ノワールはテーブルを見つめたまま、ベッドルームの施錠音を聞いた。

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